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父逝き、母壊れ

2019年12月05日
8月18日夜、父が死去した。
悲しむ間も無く、母が壊れ…緊急措置入院となった。


父危篤の留守録に気づいたのは、まかない仕事が終わった後だった。
一瞬、夜行バスで、とも考えたのだが、あまりにもタイト過ぎる。
仕事終わりの汗だくヨレヨレで、頭真っ白なまま
自宅に戻り、風呂に浸り、アイスを食べながら考える。
最期かもしれなければ、父には娘のなるべく良い姿を見せたい。
場違いなサンドレスで
朝イチの新幹線で、酷暑の名古屋に向かった。

父は拍子抜けするほど回復していた。
点滴片手に病院隣のファミマに行きたがるくらい。
母と妹が所狭しとベッドサイドに腰掛け、喋って笑っている。
恐らく30年ぶりに家族4人が揃ったのを
ワタシは他人事のように眺めていた。
「薬を飲み間違えてなぁ」
戯け口調だけど、黄疸で全身真っ黄色な父を見て、
たぶんあともう少しで死ぬだろうことを悟った。

父と母に、コンビニ行ってくる、と、はぐらかし、
妹を引っ張って、真っ先に医療相談窓口へ行く。
妹は統合失調、私は満身創痍…
自分の医療費もろくに払えないギリギリの生活。
母は認知症の始まりなのか、妄想の気配が出てきている。
(いや、本当はもっと深刻だったのに気づけなかったのが
のちに大変なことになるとは…この時は知る由もなかった)
入院費はどれくらい?もし母のほうが先に壊れたら?
二人とも後期高齢者なので上限があることや、
地域の包括センターの支援があることを知る。
担当医からの第一連絡者を、母でなく私に設定してもらう。

筋金入りの夜行性が、酷暑の日中に
無知で世間知らずが
親の死や役所の手続等をどれだけこなせるだろう。
御守代りの加味逍遙散だけが頼りだった。

父は一時退院の見込みがつき、私は一旦仕事に戻ったものの
3日後やはり急変し駆けつけることに。
(その間も母の妄想は悪化していたにもかかわらず
私達姉妹はまだ信じられず、受け入れられずにいた)
新幹線で到着が夜になったにもかかわらず
担当医師が話すために待っていてくださり。
「薬剤性にしては数値の悪化が速すぎる。
稀有な悪性リンパ腫の疑いがあるけど
体力的に検査に耐えられないかもしれない。」
父は治る気満々なのだ。先生から告げることはしないという。
「もう歳なので覚悟は出来ています。
ひとつだけ、あの…緩和ケアって出来ませんでしょうか。」

翌日、個室に移してもらえた。
朝型の母は、止めても聞く耳持たず
酷暑の中、タクシーで病院を往復し
まだ眠く横になったままの反応悪い父に一喜一憂していた。
(母はこの頃から拒食が始まり、妄想があからさまになっていたが
それでも非日常の中だから仕方ない範疇だと思ってしまっていた)
ワタシは日が落ちてから(それでも名古屋は連日熱帯夜)
母とは別行動で、父の自転車をトロトロ漕いで、時間外面会に行く。
父も私も筋金入りの夜行性なのだ。

YouTubeが大活躍した。
リクエストに応えて、昔のTV映像を流すと
バタヤンと一緒に『大利根月夜』を大きな声で歌って
「看護師さん入ってきたらビックリするで」言ったら笑っていた。
たくさん話をした。肝心なことは何一つ話さなかった。

遺すとしたらメッセージではなく
心弾む愉しい時間を共有できること。
私が父に似たのは、そういうトコロなのかもしれない。


一方、台風で外出出来ない日は
母に知られないよう、黙々とセルフ葬を調べていた。
https://guri.hatenablog.jp/entry/2015/12/06/224350
運転免許が無く車移送の諸々で諦めるしかなく
仕方なく最安の直火葬を問い合わせることになったのだけど
たまたま偶然なのか、とても頼りがいのある葬儀屋さんにあたり
(出来ることなら違う場で知り合えたら良かったと思うくらい)
火葬一連のみならず精神的にも何もかも、本当に良くしていただいた。
http://kasugai.sousiki.click/index.html

最後の日
午前中に病院から電話が入り、夕方には妹も間に合った。
父は鼻の酸素だけ残して、点滴や一切の管から解放されていた。
姿勢は楽かなど、聞くと応答はあるものの、もう話は出来ない。
先日の『大利根月夜』をかけると、母は「消して‼︎」と泣いた。
父の呼吸が荒くなる。
ワタシは、喘息発作で呼吸が苦しい時、自分の喘鳴を聞きたくないこと
静まり返った中で、母の泣き声を聞かせたくないことを説得し
TVで高校野球ダイジェストをかけた。
妹が、浮腫みあがった父の足をオイルマッサージする。
ワタシは、綿棒のようなスポンジで、
昨夜リクエストのヤクルトを口に含んでもらう。
「カロリーハーフなんて出とるんや、知らんかったな」
「ヤクルトは口渇くで水にしよか」
そのまま、無反応のまま
ドラマみたいに、ピーって音が小さく鳴り続け
その音を止めたいのに止め方がわからなくて、機械の電源を抜いた。
いつの間にかTVは騒がしいバラエティーに変わっていた。
TVを消したら、本当に全部、終わったみたいになった。

しばらくして医師が確認に来た。
解剖を希望され、一瞬迷ったが断った。
葬儀屋さんに電話をする。
「あの、先日お問合せした者ですが…」
一瞬間があって、少し驚いた反応だったけど
すぐに心強くフォロー&アドバイスしていただけた。
母と妹が見守る中、看護師さんに教えてもらいながら
死に水を含ませる。ヒゲを剃る。
リースの寝巻を脱がせ、真っ黄色な身体を拭き
ほんとは着慣れたので送りたかったけど
着せるのがかなり大変そうなので、やはり装束を着てもらう。
黄疸を隠そうと、看護師さんがファンデを用意してくれたけど
「直火葬で、誰も棺を開けて顔を見ないので、そのままで大丈夫です」

病院の受付に死亡診断書をもらいに行く。
まもなく、電話で言われた通りの…ちょっとハッとするくらい
かなりエンタメ向きな(実は自宅焼けという笑)黒い大男が
衣装(笑)でビシッと迎えに来てくれたのが、とても頼もしく
一瞬、緊張が解けたのが、とてもありがたく嬉しかった。
仕事柄、場所柄、笑顔は望めないのだけど
こんな時でもワタシは少しでも明るい何か…
救いの光のようなものを探してしまう。
不安に満ちた大人達に囲まれた中
泣き出してしまいそうな子供と同じなのかもしれない。


死後24時間経たないと火葬出来ない。
かつ、市内の火葬場は友引は休みで
どうしてもなら市外へ運ばなくてはならない。
盲点だった。
仕方なく2日後まで、ワタシはエアコンの無い父の部屋で過ごした。
母の部屋から、着るモノが無いとオロオロしたり
妹が病気のせいか、必要以上に攻め口調なのが聞こえる。
金庫の整理をしていると、
父の名前での心療内科の診察券が出てきてハッとする。
そういうことだったんだ…ね…
「オカンはいつもの青の上下でいい。
誰も呼ばないし、何も気にしなくていい。
ウチはそれでいい。一切ムリしなくていいから」
もういい。もう何も出来ない。
母と妹が衝突しないことだけ気を張りながら、漠然とやり過ごした。

酷暑の中、火葬場へ。
全員頭を下げて柩を見送る中、
ワタシはサンドレスで突っ立ったまま
火葬炉の扉が閉まるまで柩を目で追って、小さく手を振った。
係の方に骨上げを促されたけど「いいんです、私たちでやります」
母は黙りこんだまま小さくなっていた。
感情を殺して、誰も泣かなかった。


死後手続きや
母の高齢者一人暮らし物件のアテをつけるため奔走しながら
週末いっぱいまで、母と二人で
なるべくのんびり過ごしてるよう見せかけつつ
早く食の仕事に戻りたかった。
黙々とピアノを弾き、たまに誰かと会う…
あたりまえの日常を渇望していた。
でもあの時、あともう一週間だけ
母のそばにいて話を聞いていれば
こんなにまでならなかったのかもしれない。
窓から見送ってるのを知りながら、後ろ手で大きく手を振り
曲がり角まで振り向くことなく、バス停に向かった。

一週間後、母は精神を壊し、
拒食と拒薬で暴れて、緊急措置入院となった。





オトンは何歌っても浪曲唸り節だったけど
唯一英語で歌えたのが「ホワイトクリスマス」で
8月だというのに個室で一緒に歌ったね。もう12月になっちゃった。
実家退去するのに、オトンの冬物ズボンやコートはビッグイシューに
リクエスト間に合わなかった野菜ボーロは、フードドライブに寄付した。
他は何も出来なくてゴメンだけど、落ち着いたら、いつか
手帳にあったメモの続きを果たしたいと思ってる。

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今は、叶うなら、
オカンが東京で暮らせる受け入れ施設が見つかりますよう…